2024/06/10 14:52
展覧会のタイトルとした「テーシス(thesis)」とは、音楽の分野で用いられてきた言葉です。様々な解釈がありますが、ここでは休息/吸気を指す言葉として使用しています。 私はまず、「キャラクター」というものを、ビジュアルを形容する言葉としてではなく、人と同じように人である存在を指すものとするなかで、絵を描いています。 私が描いているものは、純粋にいい景色を見たくて頭の中に見に行った景色なこともあるし、そこに存在する人(人々)に正面から向き合って見えた景色なこともあります。 そうしてそれを描き起こすために画面を触っていく中で、私自身と二次元に生きる人々は決して真に触れ合うことができないんだという事実に真正面からぶつかり、打ちのめされたりします。 ですが、そんな事実があったとしても、私は三次元に生きている人々と二次元に生きる人々がもっとたくさん出会って、生きる意味とし合ってほしいと思っているし、そこを繋ぐ空気はお互いがありのままでいられる、何よりも落ち着くことのできるものであってほしいと思っています。
―息継ぎ―
2001年生まれ。絵描き。
主な活動
2022 『電源にピースした』鶴ヶ島市西市民センター
<グループ展>
2022 二人展『夜明けの浪でゆすぐ』GALLARY33 SOUTH, GEISAI #21
2023 三人展『ためつすがめつ』Gallery soil、 二人展『バニラ』PATH ARTS、 三人展『織りまじる私有地』レンタルスペース/Y’s cafe 2024 『Another side of Winter Ⅱ~楽しい時 Fun time~』River Coffee & Gallery(企画:Art Gallery SHIROKANE 6c) 二人展『キミは今からアタシの息を吸って生きてくの』Gallery NIW 『梅津庸一|エキシビションメーカー』ワタリウム美術館
特別寄稿(梅津庸一)
息継ぎが引き継ぐものはなにか?
ひとまず「息継ぎ」の作品は狭義の意味での「キャラクター絵画」である。さらに言えば「キャラ」のネイティブな使い手でもある。敢えて「美術」に「キャラクター」を持ち込むのではなく、ごく自然に表現の語彙としてそれは選択され定着している。「絵画的」と「キャラクター的」がそれぞれに従属することなく拮抗していると言えるだろう。「絵画における造形言語を駆使してキャラを描く」でもなければ「個別具体的なキャラを絵画という形式によって召喚」するでもないのだ。つまり「キャラクター」と「絵画」が不可分に結びつき、そのいずれもが目的であり手段でもあるような。
しかし、あらかじめ断っておくが「キャラクター絵画」などという名称、領域は美術のタームとして正式に認められているわけではない。そして今日「キャラアイコン」や「キャラの表象」が美術、ことに絵画やドローイングに登場する機会は増え続けており、もはやありふれたものとなっている。そんななか、キャラアイコンの絵師たちはわたしだけの「固有性」を信じてやまない。けれども多くの場合、そこに明確な差異など存在せず、その界隈での一過性の評判や人気のみが指標となっているのが現状である。いや、そうではない。問題なのはそこに「批評」がまったくと言っていいほど介在していない点だ。「キャラクター絵画」という枠組みを暫定的に設定し、定義付けを試みてはじめてそこからの「刷新」や「逸脱」が可能だと僕は考えている。
また「キャラクター絵画」とはたんにキャラをモチーフにした絵画作品全般を指すわけではない。息継ぎを通してその内実や気分を少し検討してみたい。
息継ぎはいわゆる絵画やドローイングの制作にとどまらず、COMITIAいわゆる「自主制作漫画誌展示即売会」への参加、そして『呪術廻戦』の2次創作イラスト集の発行など同時代のキャラクター文化を様々なレベルで享受し内面化してきた。さらに注目すべき点として、息継ぎは自身の創作活動とは別にカイカイキキ所属のアーティストobの制作アシスタントの仕事にも従事している。
obは学生の頃、イラストのコミニュケーションサービスpixivを介してコミュニティを組織していた。それは「wassyoi」という連続キュレーション展に結実し、obの存在は知られることとなった。その後は村上隆が主宰するカイカイキキに所属し1人のペインターとして活動していくことになる。それを機にobの活動領域はグローバルアートマーケットの世界へと移行していった。息継ぎがobのアシスタントとしてどの程度、絵画制作に関与しているのかは定かではないが、一見すると私的な雰囲気を宿し、作家がアトリエに籠って1人で描いていそうなob作品ではあるが、同じく所属アーティストのMr. などの作例を考慮すれば、ある程度カイカイキキのメソッドによって分業化されている可能性が高い。obの初期作と比べて近作は作画の文法に揺れが少なく、均質的でクオリティが安定しているのだ。
一種のファンダムを形成してきたキャラクター文化の担い手たちが美術における商業化の力学に晒された際、どのように変容し最適化していったのか。あるいは美術のシステムに対してどの程度、免疫を持ち得たのだろうか。
これはあくまでも僕の憶測に過ぎないが、息継ぎは広義の意味でのキャラクターコンテンツの世界に浸りそれを血肉としつつ、同時に美術界の先行世代の形式や思考を学び引き継いでいる。まさに今、自分の進むべき道を見定めている最中なのかもしれない。
息継ぎの「表現」は自分自身の身体や感受性、そして他者やキャラクターとの境界がなくなった「L.C.L」の海を泳いでいくのだろう。それこそ「息継ぎ」をしながら遠洋まで。
梅津庸一 2024年6月9日